こちらは2022年6月22日の記事を再編集しました。
まさか味を感じにくい人間だとは思いもしなかった
これまでも「好き嫌い」や「味が濃い・薄い」を感じていて、特別不自由なく過ごしてきました。
思い当たることは、母からいつも料理の味付けが濃いから薄くしてほしいと言われ続けていたこと。母は薄味が好きで、わたしは少し濃いめが好き。言われる度に母とは好みの味が違うのだなと、あまり気にしていませんでした。
そうではなかったのです。
わたしは、味がよく分かっていませんでした。
化学物質過敏症になってから、農薬や化学肥料を使用した野菜などは苦く感じて避けるようになり、体に合わないものを食べると咳がでます。
なので
どちらかというと味覚に敏感だと思いこんでいましたが、わたしは味覚に敏感ではなく、ただ自分の苦手なものに敏感なだけでした。
使っているうちに調味料を入れても、ほんのりしか味を感じなくなり、どんどん調味料を入れていました。おかしいと気づかずに使っていたら、味見をする際に違和感を感じるようになりました。(これは化学物質過敏症の方すべてに当てはまるわけではないようです)
気をつけて選んでいるつもりの調味料でしたが、調味料の原材料は農薬・化学肥料不使用のものではありませんでした。製造工程だけでなく、原材料をきちんと確認するとよりいいということに気がつきました。
そして
調味料を変えたことで、わたしは違いを知ることになります。
新しく購入したものは原料が有機栽培で、2年間熟成されたお味噌です。こちらでお味噌汁を作り、母に感想を聞いてみると「いつもよりあっさりとしているね」
えっΣ(゚Д゚)
わたしはいつもより濃いと思ったと伝えたところ、二人で「一体どういうことだ?」と議論になりました。
わたしの場合は
今回購入したお味噌は旨味・甘味・コクなどがあり、少し味噌を入れただけで、おいしいお味噌汁ができたと感じます。これまで使っていたお味噌は、そういったものがあまり感じられず、たくさん入れないと薄く感じていました。お味噌の味はするけれど、引き立て役がいない感じ。
母は
今回購入したお味噌もこれまで使っていたお味噌も、どちらも旨味や甘味があると言います。たしかに今回購入したお味噌の方が旨味や甘味が強いけれど、これまでのお味噌もきちんと旨味があるおいしいお味噌なのだそうです。
母はどちらのお味噌も味を感じることができるから、これまでわたしが作ったお味噌汁が辛いと感じていたし、わたしはわたしでお味噌の味がよく分からないから、お味噌をたくさん入れていました。
それが判明して
「今まで辛いと言ってごめんね。好みではなくて、味が分からなかっただけなんだね」と母から謝罪をされました。
わたし自身は味覚がよく分からないことすら分からなかったので、母のアドバイスをきちんと聞いていませんでした。単なる好みの違いだと気に留めていませんでした。わたしが反省するならまだ分かります。
母が謝る必要は全くないのになぁ。
ただ思うのは、味を感じることはこんなに幸せなことなんだなということ。おいしいってうれしいし、幸せなんだと気がつきました。
わたしの友だちで、おいしくて幸せ~が表情で分かるくらい、食べることが幸せだと感じる人がいます。わたしにはその意味が分かりませんでした。今までもおいしい・おいしくないを感じることはできました。好きも嫌いも、味が濃い薄いも分かっていたつもりでした。
分かるのですが、
あ、これ。おいしいかも。
これで終わりです。
わたしは
おいしい~幸せ✨とか
おいしくない。最悪・・とか
感動があまりありませんでした。
おいしい・幸せ✨をいっぱい感じると、反対側のおいしくない・最悪!!も大きく感じるようになる気がします。振れ幅が大きいほど、自分にとってのここちよさが分かりやすいだろうと思います。
わたしの場合、食べられるものがとても限られています。それだと大変だろうと自分を守るために、快も不快もあまり感じないようにしていたのでは?と推測します。
それが農薬や添加物など不使用の調味料を使うことで、やっと快も不快も感じることができるようになりました。
これは味覚だけの話ではなく、すべてのことに言えます。
この服の肌触りがここちいいとか
この音楽がここちいいとか
この色が好きだとか
この香りが好きだとか
感じることは自分の快・不快を素直に感じること。自分のここちよさをを見つけること。
人と違って当たり前。
わたしは欲張りなので、
自分の感じたい方(幸せ)だけをたくさん感じたい。
そう思ってしまいます。
果たしてそんなに都合よくいくでしょうか?
大きく喜びを感じる自分でいるためには、同時に大きな悲しみを感じることを許すこと。
その悲しみを感じてはいけないと抑えこんで、なかったことにするのなら、感じるという根本的な感覚が小さくなります。悲しみを感じない代わりに、喜びもあまり感じれない(こころが動かない)気がしするのです。
悲しみを感じて、自分はこう想う人間だと知る。こうしてほしい人間だと知る。それを相手に交渉できそうなときは、理解しようと交渉していくことが大切だと感じます。
わたしは
長くこころが動かない世界にいました。
そこは怒りも悲しみも少ない代わりに、喜びや幸せも少ない世界でした。こころが振れないように、必死に冷凍していました。
その麻痺したこころを、悲しみに強いわたしと錯覚していました。この錯覚でどうにか乗り切れた経験もあります。小さな振れ幅のおかげで、今まで助かってきたことも事実です。
どちらを選びたいか。
自分自身で決めて
進んでみたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
愛と感謝をこめて。
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