こちらは2022年6月9日の記事を再編集しました。
厳しい言葉にも愛がある
何年も前に
友だちから言われた言葉を思い出しました。
「あなたはどうせ自分なんて・・と卑下したり、だって○○だからできないと理由を探して結局やらない。気持ちが落ちこむから一緒にいたくない。」
ショックでした。
そんな風に思われていたということ知り、現実を受けいれたくない気持ちでいっぱいになります。
友だちに嫌われたくない。
そこでわたしがとった選択肢は、「どうせ自分なんて・・」「だって○○だから」という言葉を使わないようにすることでした。表面上取り繕っておけば、相手も機嫌を直して仲よくしてくれるだろうという魂胆です。
これはこれで意味がありました。
自分を卑下する言葉を使うと、自分の嫌なポイントを探します。言葉を使わないことで、自らそこを見つけようとしなくなりました。
ですが、根本的には変わりません。
不安はそこにあるのに、
ただ見ないように蓋をしただけだから。
わたしにとって卑下することは、自分自身を守ること。
できない理由を見つけて、最初からやらなければ傷つかない。自分の価値を相手より下に置くことで、これ以上とやかく言われないだろうという保身。
自分を卑下して、傷つかないように細心の注意を払っていたつもりでした。
今になって思います。
友だちが本当に言いたかったことは、自分を卑下しないで、いいところもあるんだからそっちに目を向けてみようよ。できない理由を探していないで、どうしたらできるのか考えてみようよ。わたし(友だち)はできるあなたの可能性を信じるよ。ということだったのかも・・・と。
言われたときは
到底受けいれられなかった言葉が
今になってこころに沁みます。
友だちは
わたしの可能性を信じて励ましてくれていたのです。
それなのにわたしは、自分のできない可能性ばかりを見て、自分のできる可能性を信じることができませんでした。傷つかないように、自分を守ることで精いっぱいでした。
言葉だけ変えても、本質的には変わりません。
小手先だけのテクニックにも意味はあると思います。ただわたしの場合は、本質まで変えることはできませんでした。人によってはテクニックが浸透し、本質からガラっと変わる方もいらっしゃるかもしれません。それでも、大抵の方は取り繕うだけになりがちではないでしょうか?
わたしが以前から「感謝の視点でものごとを見ること」を実践しています。最初はよく分からず、何かにつけて「ありがとう」を連発していました。
これはこれで意味はありました。
「ありがとう」と言っていると、そう思っているかよく分からなくても、(今)わたしは「ありがとう」と思っているのかも?と思えてくることがあります。錯覚のような、刷り込みのような感覚です。
すると過去の出来事を思い返したとき、あのとき受けとれなかった言葉のなかに、可能性を見いだしありがたいなぁと思えるようになりました。(すべてではありませんが😅)今のわたしに感謝をしていくと、過去のわたしの想いや感情も感謝の視点で再構築できるように感じています。
これは感謝できないときにも、無理やり感謝をしなければいけないというわけではありません。わたしの解釈は感謝をできないときもあると認めつつ、自分が理解したい出来事をできるだけ肯定的に受けとり、感謝のポイントを見つけていく訓練をするイメージです。
わたしは自分を卑下することしか、自分の守り方を知りませんでした。それはそのときの自分ができる精いっぱいのことでした。
気づくことができた今は、
別の方法を考えていけるような気がしています。
不安に感じるわたし。
傷つきたくない怖がりなわたし。
その自分を受けいれます。
できる可能性を見ろと言われても、見れない自分がいることを許し、疑っている自分がいることも認めます。
そして
今の自分は信じきれないその先の可能性を、疑う気持ちをひっくるめて『相手を通して観測した自分』を肯定的に解釈していきたいと思います。
それは
いいところだけを許すのではなく、
すべての感情を
許すこと
受けいれること(引き受けること)。
そして
感謝の世界を創造すること✨
最後までお読みいただきありがとうございました。
愛と感謝をこめて。
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