こちらは
2020年9月9日の記事を再編集しました。
家族の一言
ある日
家事が一区切りして「もう動けないぃ」といいながら寝転んでいると
「いつ見ても体調が悪そうだね」と弟が言ってきました。
それを聞いて私は
「やることをやって疲れて寝ていることの何が悪いんだ!」
と怒りながら反論しました。
がんばって家事をしている人に対して
それはないだろうという思いでいっぱいになり、
ムカムカした気分でした。
少し時間がたって冷静になり
あれ?なんで私はあんなに怒ったんだろう?
振り返ってみると
「いつ見ても体調が悪そうだね」と
だれかに言われると、
何もしていないことを責められている
かわいそうなわたしに勝手になっていました。
いつも体調が悪いなんて
本当はなんともないのになまけているだけじゃないの?
いつも役にたたないね。
と言われているように感じて悔しかったんだと。
だから
やるべきことをやって休んでいるだけだ
と自分を守るために(正当性を主張するために)
怒って反論していました。
それって本当に責められてる?
「いつ見ても体調が悪そうだね」という言葉は
事実を言っています。
私は体調がとてもよいという日はなかなかないし、体力もありません。
間近にいる人にとって、
「いつも体調が悪い人」に見られて当たり前の人間です。
ということは
ただ事実をそのまま言っただけなのかもしれません。
それか「いつ見ても体調が悪そうだね。(大変だね。大丈夫?)」
言葉には出していないけれど、
つらそうなことを察知して、
体調を心配してくれただけかもしれません。
「いつ見ても体調が悪そうだね。」
この言葉自体は私を責めていなかったと気がつきました。
ただの事実を
否定されていると解釈をしていただけ。
自分が思うように動けない自分を許せないでいるから、
きっと相手も自分と同じように私を責めるはず、
許してくれないはずと考えたのだと思います。
勝手な思い込みで
相手を悪者にしていたのは自分自身でした・・・
ということは
言葉や行動などの現象はそれだけでは存在しないもの。
というか意味がない。
その現象を見たいように解釈した結果、
やっと意味をもつのかもしれません。
そうやって自分が思ったように解釈をし、
現象が成り立ち自分の世界が作られていく。
つまり私の場合は
自分を許せていない視点から
世界をどんどん展開してきたということ。
自分を許せないから、自分を許さない人を創りだす。
まぎれもなく私が想ったことが、
そのまま私の世界になっているんだなと思いました。
許される世界を望むなら
自分を許し受けいれるにはどうすればいいのだろう?
私がやっていこうとしていることにヒントがあるように思いました。
それは
小さなことでもできたことを喜ぶ。
自分にがんばってくれてありがとうと伝えること。
自分に感謝すること。
同時にできない自分を認め、
その経験を糧にしていくことです。
許すことばかりをがんばってしまうと、
許さないといけないという枠にはまってしまう気がします。
それより許せない自分を許すというか、
もっと自分を甘まやかしつつ、
自分に感謝して応援してもいいのかな?
例えばいつも朝起きて洗濯物を干してすごいね。ありがとう。とか。
自分に感謝していくと心が安らぎあたたかな現象が増えていく。
あたたかな現象が増えていくとここちよい方へ私の世界が展開していく。
そんな気がしています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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