こちらは2022年10月16日の記事を再編集しました。
精神鍛錬の一年
2021年9月からの一年間、
わたしにとってはまさに
‟精神的鍛練の日々”でした。
この鍛練は我慢強くなるとか、欲望に打ち勝つとかそういう意味ではなく、むしろ逆。
※化学物質過敏症について分かりやすい動画↓がありました。よかったら見てみてください。他にもフルバーションがあります。
化学物質過敏症になり、自分のここちよさはどういうものか、じっくり考える機会をもらえた一年ともいえます。
そして
わたしの場合は、この症状がよくなるように対処すること・工夫していくことと同時に、精神的な平穩を保つことの大切さを実感するようになりました。
自分だけではどうにもならない・人になかなか分かってもらえない現実・・・
怒り・恐れ・不安
気をぬいたら
自分以外のだれかのせい・なにかのせいにしたくなるし、今度は逆に自分をとことん責めたくなります。
これを飽きるほど繰り返して気がついたのは、わたしって体調が悪いと愚痴を言いたいんだなということ。
赤ちゃんと同じで、うんちが出て気持ちが悪い!!とか、おなかがすいて不快だーという気持ちを、うまく伝えられなくてギャンギャン泣いているのと一緒。
最初は不快だと感じていても、これくらい我慢できる・我慢しなければいけないと思っていました。偶然、重い症状が出ただけ。そんなことはあるわけがない。気にしないようにしようと現実から目を背けていました。
けれど病院に行ってお医者さんから病名を聞き、いろいろな症状に向き合っていくにつれ、自分の感じている不快感って本物なんだ!と気がつきました。
今までのわたしの感覚を基に考えると、化学物質過敏症になってからの感覚は、過敏すぎて自分でも認められませんでした。香り(香りがなくても)は目に見えません。好き嫌いを含め、その方の感覚にとても左右されます。原因が目に見えて分からないから、わたしは自分の感じている不快感をなかなか信じられませんでした。
他の人はなんともないのに、わたしはこの不快感を・辛さを辛いと表現してもいいのだろうか?
どこまで耐えるべきことか、どこからがわがままなのか判断ができなくなっていきました。
あれ?このどこまでを耐えるべきか、どこからがわがままかってだれの基準だっけ?
分からないのなら、きっと自分の基準ではありません。それか自分の気持ちが分からなくなっているのかのどちらかです。
これは他人基準だったんだ。
他の人が我慢できることは、自分も我慢しなくちゃいけない。そう思って生きてきました。そのいままでやれていた我慢が、今のわたしには難しくなったのです。ですが、その事実がなかなんか受けいれられませんでした。もうここまで来たら受けいれるしかないと腹をくくりました。
多くの人と同じようにできないと認めると
不快を感じてグチグチ言いたい自分。怒りにまかせてだれかを攻撃したくなる自分。今が・将来が不安な自分。
どす黒い部分を見ても、そんな自分もいるよねと思えるようになってきました。嫌だ、そんなのわたしじゃないと閉めていた蓋を開けて、じっくり見ても(ときには痛がりながら)またやってるなぁと少しずつ笑って受けとめられるようになってきました。
どす黒い自分をなくすとか見ないようにするのではなくて、「在る」ことを受けいれて俯瞰して見る感じ?
「在る」ことを痛がりながら、おもしろがりながら、失敗しながら、受けいれる精神的鍛錬をしている。そんな感じです。
他人に向けて何かをするというより、自分の内側を観ることをします。(なにかのせいにして攻撃するのではなく、こんな風に感じて辛い・悲しいからこうしてほしいと、自分の気持ち・状況を伝えることは必要です)
人の基準に照らし合わせて答えを求めない分、ダイレクトに自分の感情に触れることになり、常に”自分の正解はどこか”に焦点をあてる作業をします。
裏返すと
ある意味、完璧さを手放すということ。
化学物質過敏症を通して、わたし自身も自分の都合がいいように毎日生きていて、だれかの都合の悪い状況を作っていると自覚できたことがとても大きいです。
わたしは
だれかにとって善かもしれない。
その反面、
だれかにとっては悪かもしれない。
そして
わたしにとっての正解はだれかにとって不正解で、わたしのここちよさはだれかにとってここちよくないことかもしれない。
それを受けいれて
さあ、
自分とまわりと世界と
どうつきあっていこうかな。
まだまだこれから。
失敗して凹んだり、
笑い飛ばしながら
精神鍛錬していきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
愛と感謝をこめて。
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