こちらは2022年5月26日の記事を再編集しました。
このタイトル、おかしくないですか?と思うかもしれません。
わたしはわたし。それ以下でもそれ以上でもないですよね?と言われたら、その通りですと答えます。
わたしがこの疑問に出合ったのは8年くらい前。当時、仲よくさせていただいた方と深い話をするようになった時、その方が「私は〇〇だと思う」という言葉を頻繁に使っておられました。
疑問が湧きます。
「私は〇〇だ」となぜ言えるんだろう?と。
そこで初めて気がつきました。
もしかしてわたし以外の人には、「私」がもっとはっきりあるのかもしれないということに。
そのときのわたしは今より「私は○○です」と、私を主語にして話すことができませんでした。自分がどうしたいのか分からなかったということもありますが、それ以前に自分が何を考えているのか分からなかったのです。
自分がどうしたいのか分からないのはまだしも、自分が何を考えているのかはさすがに分かるでしょと言いたくなるかもしれません。(それが分からない人もいるんですよ。)
考えてみると、会話している相手の意図・空気を読み期待されている自分像の中から、その状況で妥当だと思う回答をしていただけ。
その妥当と思う答えは、相手がわたしに期待した答えなのか。自分自身が考えた答えなのか。どちらなのか分かりません。
「わたしってなんだろう??」
その方との違いを知り、さらに気がついたことは「わたしは相手との境界線があいまいで、どこからがどこまでが自分かよく分からない」ということ。どこからが相手の考えで、どこまでがわたしの考えか混同して分からなくなるのです。
絵を描く際に一枚の画用紙を二人で共有している感覚のような。スパンと二つに分かれていない感覚がありました。
当時はHSP(ひといちばい敏感で繊細な人)という言葉すら知りませんでした。知らないながらも会話の中で、よくこの結論に至ったなぁと今思うと感心します。
もしかしたらわたしが考えたことだと思っていたことは、わたしが考えたことではないのかもしれない。急に梯子を外されたような気分でした。何を指針に生きていけばいいのか、分からなくなりました。
一歩ずつやるしかありません。
すると、だんだん変化が現れてきます。
「これ、もやもやするんですけど~」←圧がすごい!
分からないものを分からないまま、そばに置く力をつけるより引用
これは無視できないこころの声になってきたなぁとこころの筋力のつき方にほくそ笑むわたし😊
分からないものを分からないまま、そばに置く力をつけるより引用
この
「なんかもやもやする」というこころの声も、最初は聞こえるか聞こえないかの声で、ぼそぼそっと伝えてくれていましたが、どんどん大きく力強い声に変わってきました。
「なんかもやもやする」はなにか違和感があるということを知らせてくれています。わたしは自分の中で、どう違和感があるのか検証したくなります。
悲しんでいるのか
怒っているのか
ムカついているのか
びびって逃げ出したいのか
うれしいのか
楽しいのか
わたしの場合、この感情は誰のものか(自分のものか・まわりにいる誰かのものか)確認します。相手の期待通りの自分を演じていたので、自分の感情を自覚することにとても疎く自信がありません。
分からなくてなにか問題があるの?と思うかもしれません。
例えば
「断れなくていいよって言ってしまうんです」と聞くことがあります。それってすごいことだと思うのです。
嫌だと自覚できて、断りたいという意思があるから。
自分を知らないと、自分がどう思っているのか分かりません。断りたいという気持ちすら、分からない場合があります。
やらなくてはいけないからやる。
やると決まっているからやる。
そこに自分の意見はありません。
そこに気づけたことはとても幸運でした。
そして
わたしがやったことは、ひたすらわたしはどう想っているのかに焦点を当てること。そのうえで、わたしは本当はどうしたいのか考え、想いと行動を一致させていくこと。
想いや行動を
感謝の視点で再構築していくこと。
それが
わたしを形作る基礎となり、
わたしを愛する土台となっています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
愛と感謝をこめて。
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